Перекрёсток цивилизаций №2 (2018) | Page 57

2> 60年代後半の日本映画産業は5社(日活、東映、松竹、東宝、大映)の力が圧倒です。それに対してATG映画が

出来ました。ピンク映画は後にポルノ路線に変更した日活からさえも「町場の映画」と言われ、映画として相手に

もされず認められていませんでした。

ゆえに、映画の60分間中2/3の20分間だけ女性の裸さえ見せれば、内容の(政治的)規制が全くされなかった。

もし右翼や体制からの抗議を受けても「1つの名前で何人もの監督が撮っているから誰だかわからない」という馬

鹿げた言い訳が通じるような...そんな扱いでした。

ですから、そこを逆手に取りピンク映画においては若松孝二監督の元に志の高い人達が集結し、素晴らしい作品が

世に送り出されたのです。

私は、60年代後半以降の若松孝二、大島渚、田中登、神代辰巳監督達の名作を殆ど観ていました。

ですので、高橋伴明監督のピンク映画の試写会に呼ばれた際、最後に流れた”若松孝二プロダクション”のクレジッ

トを目にした瞬間、志を心に決めました。

80年代半ばにアダルトビデオ(AV)が主流になってくると、自ずと映像表現の求められ方が変化してきます。そして

時代と共に自主映画製作や自由な映像表現が主流となった現在においては、私達の志したピンク映画の考え方や存

在というのは、現在のピンク映画シーンにおいては意味をなさないと思います。